天皇機関説

天皇機関説”と言う言葉を本の中で見た記憶があります。言葉を見ただけなのでどのような説なのかはわかりません。 この言葉を見たときにわが意を得たり!と思いました。 天皇の指示を受けた者が政権をとると言う方法は意外と平和裏に政権移譲を行うことが可能なシステムだと考えていたからです。 古代には最も力のある豪族の王が天皇になっていたような気がします。 所が31代天皇のあたりから天皇の下で実際に政権を取るものが現れたような気がします

歴代天皇

このページでは31代から40代までご紹介します。ちょうど聖徳太子の生きていたとされる時代からです

第三十一代 用明天皇(ようめい)

585年9月5日〜587年4月9日
欽明天皇 の第4子で聖徳太子の父親です。天皇の子供で人徳者の聖徳太子が天皇にならなかったのが不思議です

第三十二代 崇峻天皇(すしゅん)

587年8月2日〜592年11月3日
用明天皇の異母弟で蘇我馬子の推薦(後押し)で即位しました。 ”祟る”言葉が入っていてあまりいい諡とは思えなくて不思議に思っていたのですが、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により暗殺された天皇です

第三十三代 推古天皇(すいこ)

592年12月8日〜628年3月7日
日本初の女性天皇です。女王としては邪馬台国の卑弥呼が有名です。聖徳太子は推古天皇の甥にあたります

第三十四代 舒明天皇(じょめい)

629年1月4日〜641年10月9日
推古天皇は後継者を定めずになくなったようです。 その為豪族達の思惑が入り乱れ最終的に舒明天皇が選ばれたようです。実権は蘇我蝦夷が握りこの時期に遣唐使が送られました

第三十五代 皇極天皇(こうぎょく)

642年1月15日〜645年6月14日
37代斉明天皇天皇と同じ天皇です。重祚といいます。舒明天皇の皇后として中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を生んだと言う事ですが、大海人皇子は違うような気がします

第三十六代 孝徳天皇(こうとく)

645年6月14日〜654年10月10日
軽皇子は皇極天皇の実の弟だと言うことです。 乙巳の変後母である皇極天皇が息子の中大兄皇子に譲位しようとしたが、辞退して軽皇子を推薦したようですが、 力ずくで蘇我氏を討った皇子が辞退するところに事情があるのでは?

第三十七代 斉明天皇(さいめい)

655年1月3日〜661年7月24日
35代皇極天皇の重祚。在位中は蘇我蝦夷が大臣になっていて入鹿が国政を執ったと言う事なので事実上蘇我氏が牛耳っていたと考えられます。 中大兄皇子が乙巳の変を起こしたのもうなずけます

第三十八代 天智天皇(てんじ)

661年7月24日〜671年12月3日
乙巳の変において中大兄皇子は中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子を滅ぼし政権を回復します。 その後皇太子として斉明天皇を支えながら大化の改新を行い、 後に天皇位に就きます。実力者を倒したとはいえ、きっと豪族からの指示が中々得られなかったのでしょうね

第三十九代 弘文天皇(こうぶん)

671年12月5日〜672年7月23日
天智天皇の息子で天智天皇崩御後に大海人皇子と壬申の乱で争い敗れる。明治天皇が維新後に39代天皇としました

第四十代天皇 天武天皇(てんむ)

673年2月27日〜686年9月9日
天智天皇の弟と言うことですが天智天皇の娘を何人も妻にしています。 乙巳の変の時の記録には載っていないし、年上と言う説もあり、天智天皇と天武天皇の関係はどの程度なのか謎です

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